英国の庭から~海外生活ブログです

オランダで還暦を迎えた駐妻。英国での5年弱、2度目の駐在生活を終え、オランダ生活も3年を過ぎてしまいました。けたところでロックダウン入り。できる範囲で何をしようかと模索中。

ホーフブルク宮殿のシシィ博物館に行く ウィーン4日目(2)

ウィーン最終日の最後の訪問先は、ハプスブルク家の冬の宮殿で、主宮殿でもあるホーフブルク宮殿に行きました。今回はこの宮殿とそのヒロインともいうべき皇妃エリザベート(シシィ)の物語です。

 

 広大なホーフブルク宮殿

ホーフブルク宮殿はウィーンの中心にあります。ハプスブルグ家の主宮殿であり、ハプスブルク=ハンガリー帝国の政府でもありました。ルーブル宮殿やベルサイユ宮殿に匹敵する規模として、長年、建て増しを繰り返して発展してきました。しかし、歴代皇帝一家が生活するたびに改装したので、各皇帝が亡くなった部屋が礼拝堂として残されているものの、残っているのは最後に使った皇帝一家の使った部屋だけのようです。

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左上ミヒャエル門。左下はアマリエンブルグ、新宮殿

皇帝一家の住居というだけではなく、役所として使われていた部分も多く、そうした部屋は大統領府や図書館、政府の部局などとして現在も使われており、観光用に公開されていない部分も多いです。私も以前に仕事で訪問した際、中の一室で政府の担当官と面談したことがあります。

路面電車でリンク沿いの停留所を降りるとモーツァルト像が迎えてくれました。この庭園を通り右手に温室を見ながら厩舎や礼拝堂のある一角を通り抜けると宝物殿があります。

 

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さらに行くと宮殿内の「皇帝のアパートメント」と呼ばれている一角に着きます。2000年頃にその一部を「シシィ博物館」と言う名前で改装し、シシィの人生に関する品を強調して展示するようになりました。宮廷が使っていた膨大な食器類を展示した「銀器室」、この3つを合わせて見学するようになっています。

シシィ(Sisi)というのは、ハプスブルク家の最後から2番目の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)の皇后エリザベートの愛称です。日本では愛らしい容姿のせいか皇妃エリザベートと訳されることが多いです。没後100年を経ても人気は衰えません。

皇妃エリザベートとはどのような人物だったのか

皇妃エリザベート(1837-1898)は、南ドイツ、バイエルン王家の分家バイエルン公爵の娘で、15歳で皇帝に見初められました。母親同士がバイエルン王女であり姉妹でしたから、皇帝とは従兄妹の関係です。元々は皇帝と姉のお見合いだったはずですが、まじめすぎる皇帝と姉の会話は進まず、無邪気な妹が花婿を射止めてしまったのです。

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15歳の時の乗馬姿の絵。60年以上皇帝のベッドの上に飾られていた。

本人は皇后になりたいと思っていたわけではありませんでした。野山を馬で駆け回りいたずらっぽく笑う妖精のような女の子だったようです。ガチガチの宮廷から来た若き皇帝が魅入られてしまったのがわかります。

突然の結婚話に驚いて動揺している間に16歳で結婚となり、60歳で暗殺されるまでの44年間、その美貌と地位ゆえにオーストリア・ハンガリー帝国内はもとより、欧州随一のセレブとなってしまいました。これは不幸なことでした。教会に行っても、カフェに行っても、一挙手一投足が注目され、パンダ状態。それゆえに自らの容姿を維持することにこだわり、注目されることへの重圧に苦しみ続けた人生を送りました。

そうした苦労に加えて、シシィの人生は数々の悲劇に彩られていました。そのドラマチックな人生は、小説、映画、バレエ、ミュージカルなどになりました。

 私は大学時代にウィーンを訪問した折、歴史の教科書や小説、漫画等でなじんだマリア・テレジアやマリー・アントワネットの痕跡があまりないことに驚きました。その一方で、どこを向いても皇后エリザベートの肖像画があふれているのです。しかも、はるかに美しい!

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皇帝夫妻の肖像。ベルベデーレ宮殿蔵

そこで興味が出て、彼女に関する伝記類を読み漁りました。ドイツ語ではシシィのファッション、食生活などの本も出ていました。多々読んだ結果、この女性は100年早く生まれてしまったことが最大の悲劇だったということがわかりました。

ハプスブルク宮廷の古く退屈な儀式、メディアに追いかけられるつらさを訴えれば、現代なら同情してもらえるでしょう。そうした中で美にこだわり、ダイエットやウォーキング、乗馬に励むことも現代なら当たり前です。しかし、19世紀の女性としては、「変人」でした。それに加えて、結婚当初は支配的な義母との軋轢にも苦しみました。また、男子を複数人、産めというプレッシャーもありました。若すぎて子育てできないと、決めつけられて生まれた子はすぐに義母にとりあげられ、なかなか面会できないなどストレスの多い生活でした。

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二人の娘が生まれたばかりの頃。

ちなみに夫のフランツ・ヨーゼフ1世は、極めてまじめで義務感の塊のような男でした。おそらく、融通も利かなかったのかもしれません。一人で、激動の時代の広大な多民族国家の帝国を68年も維持したのだから並大抵の精神力ではなかったでしょう。

皇帝は家族を愛していたにもかかわらず、妻や息子を幸せにすることができませんでした。シシィは結婚してしばらくすると、心の病となり一生涯、拒食と過食を繰り返していたようです。喘息もあり、肺病を恐れて転地療養に行き、旅行の楽しさに目覚めてしまったのです。以降、転地療養を理由に人生の後半は旅行ばかりしていたようです(それも批判の的でしたが)。

シシィを襲った悲劇は多すぎて枚挙にいとまがありません。かわいいさかりの2歳で長女を腸チフスで亡くしたり、妹を火事で亡くしました。仲の良い従兄弟のルードヴィヒ2世は変死しました。でも最大の悲劇は長男であるルドルフ皇太子が30歳でマイヤーリンクで自殺したことでしょう。

この事件以降は、生きる気力を失くし、喪服しか身に付けず、死への願望を強め、楽な死に方、死に場所を求めて彷徨する人生だったようです。

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喪服姿のシシィLeopold Horowitz画 (1899年) Wikimedia Commonsから

シシィの婚約ドレスにうっとり

さて、シシィ博物館内ですが、いきなりデスマスクと暗殺の場面、凶器の展示から始まります。(宮殿内は、撮影が認められている場所が多いのですが、シシィ博物館内は撮影禁止です。掲載した部屋の写真はホーフブルクのウェブサイトから拝借しました)

1898年秋にジュネーブのレマン湖で客船にのりこもうとした矢先、事件は突然起こったようです。イタリア人の無政府主義者にいきなり細い匕首のようなもので心臓を刺され、刺された事実に気が付かないまま100メートル近く歩いて倒れ、そのままほどなくして息を引き取ったそうです。苦しまずに死ぬことができて本望だったことでしょう。(娘、マリー・ヴァレリー皇女がそのようなことを語っていた、とどこかの本で読んだこともあります)。

次いで婚約にまつわる話となり、婚約式でシシィが着た素晴らしいドレス(手前、オリジナルは美術史美術館にあり、レプリカです。)と1954年にハンガリー女王として戴冠したときのハンガリー民族調の衣装(シャルル・フレデリック・ウォルト製)が向き合って飾られている部屋に通されます。どちらも大変素敵。

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Hofburg websiteから At Court (c) SKB, Photo: Alexander Eugen Koller

何しろ170cm 50kg、ウェスト50cmを生涯維持したというのだから、どんな服でも似合ったはずです。

 フランツ・ヨーゼフ皇帝はシシィに一生涯ぞっこんだったようです。皇帝の書斎には妻の髪をおろした寝間着姿の2枚の肖像画が飾られていました。(下はその1枚)

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Franz Xaver Winterhalter (1865年)Wikimedia Commons

美にこだわった人生

しかしシシィの側は4人の子供を産む間にはすっかり嫌になってしまったようです。初日に見たベラスケスの名画のモデル、マルガリータ王女は6年間に6回妊娠して4回出産したし、当時の王室では多産は当たり前でした。でも、無痛分娩でもないし、4回もお産をしたら、嫌になりますね。シシィは3人目で男の子を授かった後は、極力夫を近寄らせず、妊娠を避け、4人目が産まれた後は別居を通告しました。わざわざ自分で愛人まで世話したようです。晩年にはそれでも文通友達のような温かい関係になったようですが・・。

美へのこだわりは半端ではなく、体を鍛えるためにどの宮殿にも吊り輪などの体操用具を設置させていました。これは皇帝のアパートメントの中にも残っています。また健康と美容のために、ものすごい速さで毎日長距離を歩いていたそうです。当時はこうしたすべてが風変りと非難されたわけですが、今では当たり前のことで、やはり早く生まれすぎた感じです。

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シシィのドレッシングルーム、お風呂、トイレ  (c) SKB, Photo: Tina Dietz Bad (c) Alexander Eugen Koller Toilette (c) Sascha Rieger

展示品の中には、シシィの愛用品、特に旅行用品などが飾られています。

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Franz Xaver Winterhalter (1865年)Wikimedia Commons

上の絵は最も有名な絵で、27歳の時の絵。ウィーンの町中にあふれているものです。衣装はシャルル・フレデリック・ウォルトのもの。髪飾りが有名で、皇后の年齢と同じ27個が飾られています。宮廷御用達の1814年創業の宝石商 "A.E.Köchert" のもの。1つ数百万円する飾りですが、これを夜空の星のようにたくさん、最初の結婚記念日に皇帝から贈られたそうです。

この絵は皇帝の部屋にずっと飾られていたようです。髪飾りはシシィの私的な宝飾品として遺言でルドルフ皇太子の娘のエリザベート大公女に遺されました。しかし、大公女は離婚し、社会民主党の政治家と再婚し、第二次世界大戦の貧困で売り払しまい、残っていないようです(大公女も数奇な運命を送り、それは塚本哲也さんが書かれています)

 

エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女

エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女

 

 

まじめで気の毒だった皇帝の人生

シシィの伝記を読んでいた頃、むしろ夫のフランス・ヨーゼフ皇帝がすごい男だったんだなぁ・・と実は感心したのでした。シシィを襲った悲劇もすごいのですが、それは同時にフランス・ヨーゼフ皇帝をも襲ったわけです。二人の子供を失っただけでなく、皇帝の弟はメキシコ革命で銃殺され、晩年にはサラエボ事件も起きています。

悲劇に打ちのめされて、自分の世界にこもってしまったシシィとは異なり、すべて胸の内に収めてひたすら皇帝の義務にまい進したのはすごいと思います。第一次世界大戦の終わりにオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊、ハプスブルク家は支配者の地位を奪われ、オーストリアから追放されたのですが、そうした哀しい思いをする前に亡くなって良かったと思います。とはいうものの、皇帝の非情さ、反動な政治姿勢が長男を自殺に追い込んだ大きな要因なので、褒めちぎることはできないとも思いますけど。

と言うわけで、これが皇帝の執務室。広大な宮殿なのに、一家が生活したスペースは限られていて、この書斎の中に家族が最大8人集まってカジュアルに皇帝と食事をしていたそうです。シシィに別居を言い渡されベッドルームを移してからのベッドは質素で、毎朝5時前に起床する規則正しい生活を送ったそうです。

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執務室 SKB (c)Photo: Johannes Wagner, Wilfried Gredler,

 

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食堂とシシィの広いサロン(c) SKB, Photo: Alexander Eugen Koller

シシィ博物館と皇帝一家の住まいについては、宮殿の次のページからもご覧になれます。また、シシィ博物館の前に銀器室に通されます。宮廷が使った食器、銀器類が展示されています。

Silver Collection - Hofburg Vienna

Sisi Museum - Hofburg Vienna

Imperial Apartments - Hofburg Vienna

 

ホーフブルク宮殿の開館時間と入場料:

開館時間:

7,8月 9時~18時

それ以外 9時~17時半

入場料:

大人:15ユーロ、

子供(6歳~18歳)9ユーロ 

学生(19~25歳)14ユーロ

Vienna City Card 割引 14ユーロ

シェーンブルン宮殿、帝国家具博物館との周遊チケット(Sisi チケット)もあります。

皇妃エリザベート関連の書籍はこちら。