さて、今日はアランデル城内のご紹介です。お城は中世の遺構を19世紀に大がかりに補修したそうです。中世そのままというわけではありませんが、ビクトリア時代の、ゴシック趣味などの影響もあって、丁寧に保全され、今でも在りし日の様子を感じることができます。
お城は巨大で、上から見ると次のような感じ。
中世の部分からご覧に入れましょう。下の景色は天守(Keepといいます)の部分からみた城郭部分だそうです。
城壁や挟間窓からみえるサセックス地方の景色です。
城内に入ると、中世の牢屋(ご丁寧に人形までおいてある)や、清教徒革命後の議会派(Roundheadsと呼ばれる)による攻撃を受け、王党派のカトリック教徒として抵抗した様子などが紹介されています。敗北して、清教徒軍に占領され、破壊されたようです。
さらに進むと居館部分に入ります。歴代の公爵の肖像画やそのエピソードを見ながら歩きます。何しろ、15世紀位から権勢を誇ってきた一族の居館なので、お宝満載です。
↓ダイニングルームはもともと礼拝堂だったのを1795年にダイニングルームに改装したそうで、そういわれれば聖堂のような装飾の部屋です。
↓の応接室は、よりフォーマルな応接室で、現公爵家の跡取り息子であるアランデル伯爵が幼少のころ、エリザベス女王に式典でお仕えした写真などがさりげなく飾られています。小さい応接室の方には、カナレットの名画が飾られています。
客室は実際に、今もお客様を泊めているそうです。独身用とカップル用があるようです。独身用はベッドと洗面台だけらしいです。カップル用はスイートルームのような作りになっているのだそうです。
そしてこちらは歴史ある図書室。
ノーフォーク公爵家は、いくつもの名家が結婚と相続を通じてより合わさってできた一族であり、「ノーフォーク公爵」という名前ながら、本居地はサセックスで、ノーフォークにはあまり領地がないようです。アランデル伯爵家(フィッツアラン家)というのは、ノーフォーク公爵家(モーブレイ家、ハワード家)よりさらに数百年歴史が古く、初代公爵と第4代公爵が結婚した相手がフィッツアラン家出身で、4代目の相手は跡取り娘でした。そのため、代々の公爵家の跡継ぎがアランデル伯爵を名乗っており、現在、同家はフィッツアラン・ハワード家という名前だそうです。
城内を見物したところ、この一族は、チューダー王朝と密接に関わっています。3代目公爵は、エリザベス1世の母親アン・ブーリンとヘンリー8世の5番の妃のキャサリン・ハワードの伯父だそうです。この二人の妃も斬首されています。
一族の系譜を見ると、反逆罪で斬首された先祖が3人もいます。中でも4代目公爵の処刑に伴い、一族は公爵の座を失っています。処刑された理由は、同じカトリック教徒のメアリー・スチュアートと再婚を試み、スペインのフェリペ2世との共謀を疑われたためです。また、その父親であるサリー伯爵も謀反の罪で斬首されており、その祖父の3代目公爵も長い間ロンドン塔に幽閉されていました。それだけ王の近くにいると、身の処し方を少し誤っただけで、死刑になると言うことでしょう。実際、当時の一族は権謀術数に明け暮れ、身内でさえ、告発して死刑に追いやったりしていたようです。ちなみに、城の説明の人は、4代目公爵について、「彼は向こう見ずだった(reckless)だった」とコメントしていました。
4代目公爵が斬首された後、遺児は母方から相続した「アランデル伯」を名乗っていたのですが、その4代後にチャールズ2世の時代になって、再びノーフォーク公爵の地位を回復したとのことです。
時の王室と密接に関係する一方、英国国教に改宗せず、カトリック教徒を貫いたというのはかなり特異だったようです。そのかわり、メアリー・スチュワートが処刑されたときは、当時のアランデル伯爵夫人にロザリオと聖書が女王自身によって下賜されていまして、それが綿々と最大の遺産の1つとして相続されています。
これです。上記の食堂のケースにあったようですが、私は見そびれてしまい、この写真はカタログを写したものです。
上記以外にも、ビクトリア女王夫妻が泊まった部屋、様々な名前の付いた客用寝室、絵画ギャラリーなど盛沢山です。何気なくチッペンデールの家具がおいてあったり、フィレンツェのメディチ家所有だったテーブルとか、どの部屋にもうんちくと逸話がありました。
最後に同じ敷地内にある、一族の礼拝堂をご覧に入れましょう。
一族の墓所であり、洗礼式などがこの礼拝堂で行われているそうです。
下の写真は現代もの。下の19世紀の絵と見比べるとちょっと違いますね。
というわけで、お付き合いいただきありがとうございました。