英国の庭から~海外生活ブログです

オランダで還暦を迎えた駐妻。英国での5年弱、2度目の駐在生活を終え、オランダ生活も3年を過ぎてしまいました。けたところでロックダウン入り。できる範囲で何をしようかと模索中。

ミレーの「釈放状 (The Order of Release)、1746年」

2021年、あけましておめでとうございます。

2020年は仕事を辞めて、英国からオランダに転居したものの、到着して早々、オランダがロックダウン入りし、人と知り合うことが殆どない生活になり、孤独な1年でした。

これまで何十年も毎日、会社に通って、誰かと話していたのでちょっと力が抜けた感じ。1年を振り返ると寝てばかりいました。

そんな中、オランダは美術が充実しているということに気が付き、5月頃から独学で美術鑑賞術を学んでみました。私が選んだのは、Twitterで毎日絵を配信している方をフォローして、初めて見た画家や良いと思った絵をリツィートするという方法。その際、その画家の人となりを調べて、エクセルに入力するという作業をしました。

最初はオランダの画家から初めて、12月末までにその数は2,300人!それでもまだまだ有名な画家を全部拾えたわけじゃないし、次々に新しい画家が出てくる出てくる。プロの画家はそういう過酷な競争の中で絵を描いて、自分の個性をアピールして、売って食べていかなければいけないので大変ですね。

さて、そんな中、画家だけでなく、絵についても調べるようになりました。今日は、そういう絵の1つをご紹介しましょう。

 

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J.E.ミレーの「1746年の放免令」テートギャラリー蔵

 画像はテートギャラリーの Creative Commons CC-BY-NC-ND (3.0 Unported)から。

ジョン・エヴァレット・ミレーについて

まずは、この絵を描いた画家について説明しましょう。ジョン・エヴァレット・ミレー(1829年~1896年)は英国のビクトリア王朝時代に活躍した画家です。ミレーが世の中に出た頃、英国では神話や童話の本の挿絵のような画風が人気となり、彼らは「ラファエル前派」というグループを1848年に結成します。ミレーもその中の中心人物の1人で歴史や物語を題材にした絵を多く描きました。ミレーの一番有名な作品はハムレットの「オフィーリア(1852年作)」で、英国ロンドンのテートギャラリーに飾られています。

今回ご紹介するこの絵も同じテートギャラリーの所蔵品でオフィーリアが描かれたのとほぼ同じ1852~3年に描かれたものです。

この絵で注目したいのは、絵の女性モデルが、ラファエル前派のスポンサーだった美術批評家、ジョン・ラスキン(1819年-1900年)の妻エフィ(1828年-1897年)だということです。エフィは1848年にラスキンと結婚したのですが、結婚生活に大いに不満を抱いていて、ミレーの絵のモデルをつとめながらミレーに惹かれていったようです。

エフィは1854年にラスキンに対して行った婚姻無効の申し立てが認められ(認められたということは、医者がエフィの体を検査して夫婦生活の形跡がなかった、つまり処女だったいう意味です)、1855年にミレーと結婚しました。しかし、どのような理由にせよ、当時稀だった離婚には違いなく、保守的なビクトリア女王はそれ以降、ミレーに肖像画を発注することはなくなったそうです。

ミレーは晩年、最後の希望として、ビクトリア女王に妻の謁見を求めて認められたそうです。ちなみにミレーは絵の功績が認められ準男爵の地位を与えられており、正確には
Sir John Everett Millais, 1st Baronet of Palace Gate in Kensington in the County of Middlesex and of St Ouen in Jerseyという名前です。当時の貴族は、女王への謁見を経てようやく貴族階級の一員として認められたということらしいですが、愛妻家だったということですね。

「カロデンの戦い」の敗残兵の釈放の場面

この絵ですが、これはイングランド軍に謀反人として投獄されていたスコットランド兵を妻が当局に掛け合って夫を釈放してもらった場面です。

この絵のタイトルは"The Order of Release 1746"で、日本語で検索すると「1746年の放免令」と訳されていることが多いのですが、そんな法令はありません。囚人を釈放してもらうには裁判所が出した書状が必要ですから、釈放状のことを意味しているのだと思います。そして1746年という数字がこの絵が何を描いたかを語っています。

日本の世界史の授業だと、英国では清教徒革命と名誉革命があり、名誉革命(1688年)で議会によってスチュワート朝の国王ジェームズ2世は処刑されることなく追放された。英国王の地位はスチュワート家の娘夫婦であるオレンジ公ウィリアム夫妻が継ぎ、その妹アン女王に子供がいなかったので、新教徒で遠縁のドイツのハノーバー家からジョージ1世を迎えたと習います。

しかし、スチュワート朝はスコットランド出身の王家であり、スコットランド人の多くの氏族はこの解決策には全く納得できなかったのです。彼らはジェームズ2世の子と孫の王位を支持し、支持者たちはジャコバイトと呼ばれました。そして、政府の正規軍であるイングランド軍とジャコバイト軍による内戦が半世紀以上にわたって続いたのです。ジェームズ2世の孫であるボニー・プリンス・チャーリーをかついだジャコバイト(スコットランド)とイングランドとの最後の決戦「カロデンの戦い」が行われたのが1746年4月16日でした。 

スコットランド北部ハイランド地方のインヴァネス近郊のカロデン湿原で行われたこの戦いは、イングランド側の大勝に終わり、スコットランド兵の多くが惨殺、あるいは「反逆者」として収監されました。その戦いの凄惨さはスコットランド人に語り継がれ今でもイングランドに対する憎悪感を掻き立てているらしいです。

さて、絵に戻ると、左側の赤い制服を着ているのがイングランド陸軍の兵隊。釈放されて妻に抱き着く夫はよれよれのタータンを着ています。犬は飼い主に抱き着いて喜んでいますが、妻は片手で釈放状を差し出し、反対側の手で子供を抱いて疲れ切った表情。

よくみると妻は裸足で、釈放状を買うために有り金をすべてはたいたのか、あるいは、この陰鬱な表情をみると、身を売って夫の自由を獲得したのか、そのあたりを見る人の想像にまかせています。

失敗に終わったミレーの脱中世の試み

ミレーのこの絵は1746年に時代を設定しており、この絵をきっかけにミレーはラファエル前派が多く取り扱った中世という時代から、現代画や風景画、肖像画などに軸足を移そうと試みます。

というのは、ミレーは1855年にエフィと結婚し、あっという間に子供もできて、生活費を稼ぐ必要に迫られたからです。中世を題材にすると、情報が足りないことも多く、細部の書き込みのための調査などにも時間や費用がかかる。ミレーは「5シリング硬貨よりも小さな部分を描くのに丸1日費やすわけにはいかない 」とこぼしていたそうです。

しかし、ロマンチックな中世の絵画を時代は求めていたのでしょう。その試みは一般にあまり受けず、発表した絵も批判の的になってしまいました。そこで、1860年以降は再び、大衆が求めるロマンチックな中世や神話を題材とした画風に戻ったそうです。

1枚の絵でも色々なエピソードがありますね。